お茶の歴史

日本茶の歴史は?時代ごとの流れを解説!始まりから輸出や機械化まで

投稿日:2019年3月7日 更新日:

日本茶の歴史は?時代ごとの流れを解説!始まりから輸出や機械化まで

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日本人にとっては日本茶は「国民的飲料」ともいえるのではないでしょうか。

普段何気なく飲んでいるお茶ですが、その歴史について知っている人は少ないと思います。

お茶の歴史をひも解くと、 なんと1000年以上も前にさかのぼることがわかっています。

え?1000年も前からお茶は飲まれてるんだ...。
タマ

時代の変化によりそい、日本茶はより多くの人に普及していきました。

なぜここまで日本茶は多くの人に飲まれるようになったのか?

茶太郎
この記事では、日本茶の始まりから世界に普及するまでの流れを説明したいと思います。

お茶の始まり~中国の神話から~

お茶の始まり~中国の神話から~お茶の起源は中国と言われています。

神話の世界では、今から5000年前に「神農」といわれる人物が世界で初めて茶を口にしたと記されているそうです。

また、史料としては紀元前59年に「茶を煮る」と書かれていることから、中国では少なくとも2000年前からお茶が飲まれていたことがわかります。

茶太郎
それでは、中国から日本にお茶が伝わったのはいつなのでしょうか?

奈良時代~栽培の始まり~

奈良時代~栽培の始まり~

始まりは唐から帰国した永忠

お茶の栽培開始は奈良時代が最初と伝わっているようです。

最初にお茶の文化を広めたのは、大僧都・永忠(743~816)という人物でした。

永忠は、遣唐使として唐(当時の中国)に渡り、喫茶法を日本に持ち帰ったとされる人物です。

お茶を広めるきっかけとなったのは、当時の天皇である嵯峨天皇が永忠の勤める梵釈寺(ぼんしゃくじ:滋賀県)に立ち寄った際に、お茶を煎じて献上したことだそうです。

この時に献上されたお茶を嵯峨天皇が気に入り、様々な産地でお茶を栽培させて毎年献上させるようになったとのことです。

こうして日本の各地にお茶の栽培が広まっていったんだね!
タマ

茶太郎
梵弱寺は、現在の「崇福寺跡」の周辺にあったと考えられています。こちらは実際に訪問してきたので興味があればご覧ください。
おちゃらいふ
崇福寺跡 (滋賀県大津市)に訪問!お茶の歴史の始まりを訪ねて・・
崇福寺跡 (滋賀県大津市)に訪問!お茶の歴史の始まりを訪ねて・・

滋賀県大津市にある「崇福寺跡(すうふくじあと)」を訪れたことはありますでしょうか? 「扶桑略記」によると、崇福寺が建造されたのは668年で、場所は比叡山南麗に位置します。 天智天皇が大津京を外的や災難 ...

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日本最初のお茶は・・

ちなみに奈良自体から平安時代にかけて飲まれていたお茶は、「餅茶」や「団茶」というものでした。

餅茶は、生葉を蒸しても餅状にしたものを砕き、粉末になったものを煎じて飲むものだそうです。

これが日本に初めて伝わったお茶だと考えられています。

茶太郎
ですが餅茶は日本人には合わず、衰退していったとのことです

鎌倉時代~栂尾茶と抹茶~

鎌倉時代~栂尾茶と抹茶~

栄西がお茶を普及させていった

鎌倉時代になると、急速にお茶の文化が発展します。

この時代に最もお茶文化に貢献したと伝えられているのは、栄西(1141~1215)です。

栄西といえば臨済宗の開祖として非常に有名な人物ですが、お茶の歴史のなかでも非常に重要な功績を残しています。

その中でも、大きな功績が「喫茶養生記」の執筆です。

喫茶養生記は医学書として書かれたもので、薬としてのお茶の効果も述べています。

茶太郎
まだまだ医学が発達していない時代ですし、お茶の普及に対する影響は大きかったのではないでしょうか。

栄西から明恵へ

また、栄西は現在も日本を代表する銘茶となっている宇治茶の発展にも貢献しています。

お茶の知識があった栄西は、栂尾山にある高山寺(京都)の住職である明恵にお茶の種を送りました。

この種を受け取った明恵が、栂尾山で栽培してできたお茶が「栂尾茶」です。

栂尾茶は後の時代で「天下一の茶」と称されるほどになります。

さらに明恵は、栂尾のお茶の種を宇治の五ヶ庄大和田の里に播いたと伝えられており、これが宇治茶の発症とされています。

茶太郎
間接的ではありますが、栄西が明恵にお茶の種を送ったことで宇治茶が誕生したということですね。

抹茶の登場

奈良時代の主流のお茶は、「餅茶」や「団茶」でしたが、この時代は「抹茶」が主流となります。

現在の抹茶ほど粉末状ではなかったと言われていますが、禅僧たちの間では修行中に襲ってくる睡魔を抑えて、精神を集中させるために抹茶を用いていたとのことです。

当時から眠気覚ましに使用されていたんだ!
タマ
茶太郎
カフェインの効果ですね

室町時代~お茶と禅~

室町時代~お茶と禅~

侘茶の登場

室町時代になると、お茶を通じて精神面の静かさを得るという「侘茶」の文化が登場します。

この精神は現代でも茶の湯の文化として大切にされていますね。

この侘茶の文化を浸透させたのが、村田珠光という人物です。

珠光は、禅の世界とお茶の世界の融合を目指し、詫び・数奇の理念に基づき「四畳半の茶の湯」を完成させます。

この侘茶の精神が考案された理由には、当時の時代背景が影響していました。

お茶が賭け事に・・

鎌倉時代にお茶が急速に普及したことよって、貴族や武士層、下級品であれば庶民もお茶を口にするようになってきました。

そんな中、お茶を社交の場として扱う「会所の茶」が流行していきました。

会所とは、唐物(中国から輸入した物品)を飾って鑑賞しながら、唐物の茶道具を使用してお茶を淹れるような場のことです。

会所が闘茶へ

そんな会所の茶が時代とともに変化していき、1300年ころには「闘茶」というものになります。

お茶で闘うの??
タマ

茶太郎
闘うわけではありません笑

内容は、お茶を飲んでその産地を当てるゲームのようなものでした。

鎌倉時代の説明でもお話しましたが、この時代で天下一と言われているお茶は「栂尾茶」でした。

この栂尾茶を「本茶」、それ以外のお茶を「非茶」として、産地当てを楽しんでいたようです。

茶太郎
ここまでは良かったんですが・・

しかしこの「闘茶」がさらに形を変えて賭け事にまで発展していったようです。

この状況を見かねた初代将軍足利尊氏が,「建武式目」の中で闘茶を禁じます。

お茶と禅の融合

その後、足利義政が室町幕府の8代将軍に就任します。

この時代の象徴ともいえる東山文化は、公家風の伝統文化の要素と中国伝来の「禅」の精神を取り入れた和漢融合の文化でした。

禅の精神にのっとり、お茶も精神的な静けさを目指すよう侘茶が普及し始めたようです。

この侘茶の精神は、当時堺の商人であった武野紹鷗という人物に引き継がれます。

紹鷗が茶の湯の体裁を整えたことで、堺を中心として各地に侘茶の文化が広まっていきます。

そして紹鷗の門下からは、あの 千利休や、今井宗久、津田宗及などの弟子が現れます。

千利休の師匠が武野紹鷗さんってことだね!
タマ

茶太郎
千利休を始め、この弟子たちが後次の時代の茶の湯を取り仕切る役目となるんです

安土桃山時代~千利休の登場~

安土桃山時代~千利休の登場~

「茶頭」千利休

安土桃山時代といえば、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった戦国の英雄が現れます。

でました戦国時代!
タマ

その中で、最も茶の湯の文化を引率したのが千利休です。

利休は、織田信長に「茶頭」として仕えていました。

茶頭とは、安土桃山時代に登場した役目で、茶の湯の準備や座敷の飾りつけなどを、将軍家や諸大名に使えて行う役職です。

織田信長が明智光秀に討たれた後は、豊臣秀吉に茶頭として仕えます。

利休が天下一の茶匠へ

秀吉の関白主任にあたり、天皇や親王を招いた茶会を開いた話は有名ですが、その茶会で正親町天皇に茶を献じたのが利休でした。

天皇に認められた利休は「利休居士」の称号を与えられ、天下一の茶匠として地位を得ることになります。

利休はその後も多くの弟子を輩出し、お茶の文化の普及に大きな功績を残しました。

茶太郎
利休の名言なども後世に伝わっています

お茶が政治に利用されるように

時代背景に応じて、その存在意義が変わっていくお茶ですが、この時代では政治的な用途が強かったようです。

信長は、茶道具を大量に買い占めることで自分の力を誇示することに利用していました。

秀吉は、多くの要人を茶会に招くことで自らの地位を高めていったようです。

戦国時代のお茶は権威を高める道具でもあったんだね...
タマ
茶太郎
江戸時代ではますますお茶の用途が発展しますよ

江戸時代~開国と輸出~

江戸時代~開国と輸出~

大名茶人

江戸幕府では、「大名茶人」という役職が設けられており、多くの大名に茶の湯の指導を行っていました。

大名茶人で最も活躍したのが、古田織部(ふるたおりべ)です。

織部は各地の大名に積極的に茶の湯の指導を行い、お茶の文化を大きく広めた他、将軍に茶道を伝授して大名茶人としての地位を固めていきました。

こういった背景から、各地でお茶の開発が盛んになり、その地ならではのいろいろな銘柄のお茶が開発されていきます。

煎茶の発見

まずは現代のお茶の主流とも言える「煎茶」が誕生します。

当時、京都では蒸し製の碾茶(宇治抹茶)が作られていました。

そんな中で、宇治抹茶に新しい製法をもたらしたのが、永谷宗円(ながたにそうえん)です

宗円は、それまでの製法に工夫を加え新芽を蒸すという発想で煎茶を開発しました。

茶太郎
この功績により、宗円は茶宗明神社(京都府)に祀られているそうです
京都に行く機会があれば立ち寄ってみよう!
タマ

玉露の発見

また、宗円と付き合いのあった山本家の6代目である山本嘉兵衛(徳翁)が、碾茶の新芽から「玉露」を開発しました。

玉露は現在では、日本茶の種類の中では最高峰の地位を築いています。

宗円や嘉兵衛が開発した、煎茶や玉露の製法は「宇治製法」として全国に普及していきます。

お茶の輸出が始まる

また、江戸時代の終盤になると、お茶の輸出が開始されます。

きっかけはもちろん、ペリー来航による開国です。

日本が開国したことにより、当時はアメリカ・ロシア・イギリス・フランス・オランダと貿易を開始しました。

この中で、お茶は重要な輸出品となり、海外にも日本のお茶文化が広がっていきます。

お茶が輸出されているなんて知らなかった...
タマ
茶太郎
生糸のイメージが強いですよね

明治時代~産業化が進む~

明治時代~産業化が進む~

生産の機械化が進む

明治時代になると、お茶の輸出量はどんどん増加し、一時は国内生産量の60%を輸出する時期もありました。

輸出品の中で有名なものと言えば生糸や米でしたが、お茶はそれに並ぶほどの製品として扱われていたようです。

この急増する需要に対応するため、お茶の生産技術を高める必要がありました。

そのために、生産の機械化を目指したのが高林謙三(1832~1902)です。

高林の考案した粗揉機は特許を取得し、各地のお茶農家に普及しました。

機械化で作業効率アップ!!
タマ

摘採方法も進化

また、お茶の摘採方法も進化します。

お茶の葉を摘採する際は手で摘むことが常識でしたが、内田三平が考案した手ばさみにより、収穫速度が飛躍的に上がりました。

「やぶきた」の発見

茶葉では、現在主流となっている「やぶきた」を杉山彦三郎が開発します。

やぶきたは品質が高く、耐寒性・耐病性に優れており、瞬く間に各地に普及していきます。

こうして現在のお茶文化の基盤がどんどん整っていったわけですね。

茶太郎
現在では茶園面積の70%以上が「やぶきた」らしいです。
どんどん現代に近づいていくね
タマ

現在~健康効果に注目が集まる~

現在~健康効果に注目が集まる~近代では、戦後の援助物資の見返りとしてお茶が選ばれたこともあり、お茶の輸出が増加しました。

それ以降は平成初期までは生産量は減少していきますが、緑茶の健康効果が注目されたこともあり、ヨーロッパやアジアを中心として需要は増加し続けているようです。

現代では カテキンの抗酸化作用やテアニンのリラックス効果など、現代社会を生き抜く必須アイテムとして重宝され始めました。

目まぐるしく変化する世の中ですが、だからこそお茶の健康効果や茶の湯の文化をしっかり引き継いでいきたいですね。

茶太郎
最近では健康効果だけにとどまらず、アロマや美肌効果なども注目されています。
まだまだお茶が活躍する機会が増えてきそうだね!
タマ
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